CMとのタイアップでソロ活動を続ける矢沢永吉が「時間よ止まれ」を大ヒットさせ、ゴダイゴがドラマの主題歌であてた。 大衆に向けてそれでもロックとカテゴライズされたジャンルがそのスタイルやポリシーは別にして確実に認知され始めていた。 YMOやシーナ&ロケッツがデビュー。RCサクセションが化粧を施したロックンロールバンドとして再デビュー。 英国からのパンクムーブメントをバックボーンにエルビス・コステロの来日等メジャーシーンのヒット化に対峙する様にライヴハウスでは 東京ロッカーズを初めとする「インディーズ」が、よりリアルな活動を活発に始める。
2つの両極に位置するエネルギーとメロディが交錯するこの時代氷室京介は松井恒松、後に脱退する諸星アツシらと組んだ「ディスペナルティ」でヤマハ主催の アマチュアロックバンドコンテスト「EAST WEST」で地元群馬・関東甲信越大会で優勝、後に上京のきっかけとなる中野サンプラザの全国大会へ駒を進める。 布袋寅泰は後にマネジメントを担当する土屋浩と共に「BLUE FILM」を結成、深沢和明(初期のBOØWYではサックスを担当)らをブレーンに楽器店の主催する「A・ROCK」でやはり優勝、 日本青年館で行なわれる全国大会へとお互いに別のルートでプロというスタンスへトライを始める。 氷室はボーカリスト賞を受賞、布袋はリスナーとして、よりマニアックな作品へと傾倒していく中、この時期2人には最も身近にいる、最も大きな意識相手という以外にあまり接点は無い。 巨大すぎる2つの才能と可能性を抱えるには地元の街は小さすぎたのかも知れない。 引かれ合う磁力は2人を対峙させる事でしか成立しないキャパシティでしか無かった。全国大会後2つのバンドメンバー達はやはり別々のルートで東京のシーンへとスカウトされる。
バンドでのデビューを拒否された氷室はヤマハではなく「ビーイング」と契約。 けれどもそこでもバンドとしての活動を中断させられ、プロダクションの意向で「スピニッジパワー」(当時流行していたディスコミュージックを中心としたバンド)のボーカリストとしてレコーディングに参加。 この年12月12日にアルバム「ボロー・ボロー・ボロー」で実質的なデビューを余儀なくされてしまうけれども、 イギリスのミュージックシーンに傾むいていた氷室にとってその音楽性の違いは苦痛以外の何ものでもなかったし、それ以上に契約をはじめとしたシステムの中で縛られて行く事に根本的な憤りを覚えていた。 しかし、音楽をしていくだけの知識とエネルギーしか持っていない彼にとって具体的な打開策は思いつきようもなかった。