■1983年 /BOØWY COMPLETE/LIVE DATA

プライベートオフィスという響きには満足できるものがあった。アンダーグラウンドなシーンやロンドンに目を移しても、そういった形態をとっているアーティストも沢山いたし、 何よりもそこを拠点に新しい出来事が生まれてきそうなニュアンスが感じられる気がした。実際はレコード会社に助けられているモノ、大手の会社の出資体系の中で活動を続けるモノ、 といろいろなスタイルで維持している所が多い中、実情としてのØ−con-nection は社会的に見れば最低の位置にランクすると言っても過言ではなかった。

ビジネスとして成立する可能性を追求されていないロックンロールシーン。 プロダクションのプランニングから自ら外れていった連中を支えるオフィス。 権利など何ひとつ持てない中、彼らは野心だけで戦っていく他何の術もない。 彼らは土屋の持っていたスタジオのある高円寺にまず、Ø−con-nection としてのスペースを借りた。

事務引き継ぎも何も無い中、レコード会社側からしてみれば発売されたレコードのプロモーションも思うようにやれず、レコードは宙に浮き、そしてBOØWYの事は誰も口にしなくなって行く。 プロデュースを引き受けた木村は次のレコード会社を探し始め、土屋はとにかく彼らの事が正しく大衆に伝わる為の方法で頭を痛めた。 予算はどこにもない。手作りのチラシ、ポスター、キャラクターグッズ、そして楽器とメンバー、スタッフを詰め込んだボロボロのハイエースで、 とにかくステージを求めて全国を回った。暑い夏の九州への旅、きかないクーラーを手助けする為に車じゅうにアルミをはって熱を反射させて涼をとる。 3万人のイベントにブッキングしギャラが野菜でイベントは村祭りだったりした事もあった。北海道をのぞく数々の街を彼らはそのハイエースで回る。 1泊1,200円の京都の宿、九州のラヴホテルのザコ寝に、四国のキチン宿、車を追いかけてくるファンを重量オーバーのハイエースはいつも必死にまき続ける。 追いかけられる事がつらい訳ではない。宿泊している場所を知られたくない為に−。 それでもメンバー達は満足していたし、その事も含めた全てを楽しんでいた。

ステージはいつも最高。そして生のリアクションがいつでも身の回りには溢れかえっていた。売れるとか売れないとかの次元とは全く別の価値観が彼らを支え、 より深い自信へとつながっていった。彼らをよぶストリートな組織は少しずつネットワークされ、動員はどの街でも増え続けていた。 レコードにさえなっていない彼らのナンバーは録音されたライヴハウスでの、テープでの取り引きでうたわれ、どこの雑誌にも載っていない彼らのスタイルを真似し始める連中が全国の とがったアンテナを持つ若者の間で増え始めていた。

組織にまるで期待されていない彼らの情報は中央のマスコミにはほとんどなく、またオフィスに縛られない彼らのスケジュールはシメキリというモノを持っていなかった。 木村の用意した2つ目のレコード会社、ジャパンレコードにおける「INSTANT LOVE」のレコーディングもそんなタイムテーブルの元で進行していた。 本来ならば期間を決めて進められるその作業はプロダクションの持っているスタジオの空き時間を使って御自由にどうぞというものだった。 考えられない方法論ではあったけれどもその時の彼らにはそれがマッチしていた。 布袋をプロデューサーに、メンバー4人のアイデアが気の向くままテープに吸い込まれて行く。作品自体の一貫したクウォリティはともかく、彼らはレコーディングにおいても自分達というものを 音にして行く為のレッスンをこの時期、自然に身につけてゆく事に結果的にはなる。

リリースという形できられる事のなかったシングル「FUNNY−BOY」が新宿有線で3週連続1位になり、ライヴハウスが超満員になろうとも、 組織はまだBOØWYを発見できず、しかも契約したばかりのジャパンレコードが徳間音工に吸収され、またもや事務的な全ての予算がカット、見え易いポジションから更にベールをかけられようとも、 彼らを必要とするシーンは確実に広がりつつあった。そして土屋はこれ以上の所へ行く為には、それでも大きなシステムとのコンビネーションワークが必要な事を身をもって知り始めていた。
 


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