金属バットで両親を殴り殺すという事件をはじめ、ティーンエイジャーの理由なき反抗が世の中を騒がせたこの年、BOOWY
の原形となるコンタクトがスタートする。 都市福生という米軍基地のある街、あまり日本的でない要素を多く持つ都会の田舎町に、ハウスと呼ばれる住宅を借りて暮らしていた布袋の元へ1本の電話が入る。
この時期布袋は一切のバンド活動を停止し、昔の仲間を頼りに日本でない文化要素を多く持つこの街でミュージシャンとしての基礎を模索していたといえる。
上京するまでの2〜3年の駆け足の帳尻と内面的な世界が合致する事をごく自然に望んだ結果だったのかも知れない。
他人や家族から見れば不確実な日々−受話器の向う側の相手は氷室だった。「ちょっと話したいんで会いたい。」具体的な要件は言葉にされていなかった。
氷室はポップミュージックも実験音楽もパンクも、とにかくレコードを聴きまくっていた。
それは不本意な活動からの抜け道を探し出す事のできない、縛られている自分への憤りからだったかも知れないけれど、
そのポジションにいたからこそより具体的な自分へのビジョンを構築しやすい所に位置していたとも言えた。
方法論の発見できない彼は1度全てを捨てて地元に戻る事を考えていた。 ALL
or NOTHING 彼のラストチョイスの判断基準はいつでもそこにあったから袋小路の中で彼がその事を考えたとしても決して間違った選択ではなかったかも知れない。
けれども最後に見ておこうと期した7月5日RCサクセションの日比谷野外音楽堂でのコンサートの座席で彼は「ALL」の方を選択する。
−自分達のバンドを創る。氷室がその後まっさきにダイヤルに指を回したのは布袋寅泰のルームナンバーだった。
仲間という意識をベースにバンドを組んでいく。忘れかけていた最も基本的な思いを氷室は無機質なバンド活動の日々からようやく取り戻そうとしていた。
六本木で待ち合わせた初めての2人だけの時間は氷室と布袋の最もひかれあうベクトルを今度こそ確実に確認し、そして少しだけ遠回りした運命はいよいよ大きなひとつの歯車に変わろうとしていた。
オーディションを繰り返す事は、メンバーを選定するにあたって、やはり仲間である事、同じ痛みや同じ価値を共有できる事を最重要課題にすべきだという事を確認する場となった。
知識だけではない、優れた技術だけではない−ベースには安定したミュージシャン活動を手に入れつつあった松井恒松がそのポジションをキャンセルして参加した。
バンドへの思いは又彼も同じだったのだ。そしてギターには諸星アツシ。サックスには深沢和明。地元での2つのバンドがバランス良くミックスされた絆の上にドラムスとして
東京での氷室のパートナーでもあった木村マモルが参加。とにかく始めなければいけないという思いをそれぞれの胸に、バンド名は「暴威」と名付けられた。
日本のメジャーシーンでもパンクをベーススタイルにした「アナーキー」がデビューし、オリジナルのB級テクノポップが街に流れ始めていた。