布袋はバンドのスタイルを模索する。テレビやメディアに犯される事なく存在した当時のシーンは巨大なセールスこそ生み出さなかったけれども、 だからこそ様々なスタイルの才能達で溢れ返っていた。プラスティックス、P・モデル、ヒカシュー、アナーキー、ルースターズ、ARB、モッズ、 ノーコメンツ、シネマ、ピンナップス。続々とメジャーデビューし、インディペンデントのシーンも合わせると都市(まち)のどこかで毎晩コンセプシャルなイベントや ギグがくりひろげられていた。バックボーンとしてイギリスのシーンをベースに考える布袋はビートとメロディ、 あたり前の事だけれどもその2つを大きなテーマに鋭角的なスタイル、そこにサックスをのせた、例えばデキシーミッドナイトランナーズの要素をよりスピード感やひねくれたセンスで まとめていく事を考えていた。現実的には氷室と布袋の蓄積していたメロディとアイデアの洪水の中で、様々なスタイルが実験され、時には一貫性を見失う事もあったけれども、 精力的な彼らのリハーサルによりそれぞれの個性をベースに次々にオリジナリティ溢れる作品がまとめあげられていった。 彼らはその活動の中期から後期にかけてあまり、リハーサルの時間をとらなくなっていく。 その事からもいかにこの時期のリハーサルでBOØWYとしてのベースを創り上げてしまったかが計り知れる。 5月11日からは新宿LOFTにワンマンで登場、いよいよライヴシーンにあっても彼らの軌跡はスタートするが、 この時はまだ目で追って数えきれる程の客席でしかなかった。 それでも彼らの演奏はキレまくっていた。口コミでその噂は徐々に広がってゆく−。
氷室の挑戦も実を結びいよいよレコーディングのスケジュールが出された時、メンバーの中で木村だけが自分の志向を含め、メンバーになる時に提示した条件をここで切り出す事を決意する。 自分はドラマーとしてではなくプロデュースワークをビジネスにして行きたい事。 氷室、布袋、松井をはじめとして個性の強い個々を外部から支える。 まずはじめのプロデュースワークを彼ら(BOØWY)と共に行なっていきたい事。 つまりドラムスとしてのメンバーから身を引きたいという事であった。 氷室にとってきつい時期の理解者であった木村の協力を感謝こそすれ、約束であったその事を反古にする事を押し切れない彼らには、 ドラムスに関しては新メンバーを探すより他に手は無かった。 年令的にもやや年上の木村は、パンクスをはじめとするアクティヴなスタイルよりもよりテクニックを重視したタイプでもあったし、 音のスタイルからいってもそれは正しい選択だったかも知れない。
転がり始めた運命はもはや停止する事はなかった。新宿LOFTでの出会いの中にうってつけの男がいた。
高橋まこと−福島出身の彼は東北地方で幾つものバンドを掛け持ち、進学校からのコースをキャンセルし、ドラムと仲間と共に上京。 丁度彼のバンドが活動停止を決めた3日後に偶然LOFTでの暴威初ライヴの場に仲間と共に居合わせていたのだった。 形式上数人のオーディションを行なったものの、1番はじめに「IMAGE DOWN」のカウントを叫んだ高橋に、まるで当然のようにドラムスという ポジションは決定する。松井恒松とのコンビによる、後に言うBOØWY BEATがここで完成へのセットアップを見る。 後にも先にもたった1度の合宿でのリハーサルで、暴威はより暴威へとかたまっていった。