■1985年 /BOØWYCOMPLETE/LIVE DATA

時代はアナログレコードからCDへの移行を確実に準備し始める。 テレビの番組では過熱しすぎるやらせ問題でとうとう逮捕者さえも出しながら、作られたアイドル達がウィークリーのベスト10のランキング入りを目指し笑顔をふりまいていた。 BOØWYは正式な契約を受け、2月24日朝レコーディングの為ベルリンのハンザトンスタジオへと飛び立っていった。 年末から続いたミーティングの席で彼らはディレクターの子安次郎氏を紹介され、初のシステマチックなレコーディングに向け、プロデューサーを立てて制作していく方向性を決める。 数名の候補の中からメンバー全体の意志は尊重され、元四人囃子、プラスティックスに在籍した佐久間正英氏にその旨はオファーされ、佐久間氏からの答えの条件のひとつがハンザトンスタジオでのレコーディングだった。 メンバーは目を見張った。デビッド・ボウイなどのアーチストが音を創り出したハンザトンスタジオである。 彼らだけのエリアで発案し続けてきた中に初めて、より彼らを巨大にする為の前向きなアイデアが外部からあった。 その事の喜び以上に思いは既にベルリンに飛び、ライヴを繰り返す中で生まれた沢山の楽曲の整理に氷室と布袋は追われた。 約2週間程の短かい滞在ではあったが車で21時間かけて到着した九州への所要時間と同じ長さで到着したそのドイツの街は、 レコーディングを通じそれぞれのメンバーの中に様々な思いやエッセンスを生むのに十分すぎる刺激を持った場所であった。 そのスケジュールの後、メンバーはロンドンへと立ち寄る。地元のコーディネーターの協力を得て、あのマーキークラブでのギグがセッティングされていたのだ。 街中には彼らのポスターが溢れ、彼らがコピーした方法論のオリジナルな文化を持つ街に彼らは楽器をかかえ到着する。 ギグの反応は好意的、且つ熱狂的。彼らはオリエンタルな要素を無理に加えるでも無く全くの日本語で、そしてLOFTでライヴインでプレイしたのと全く同じスタイルでマーキーのステージに立ったのだ。 彼らの強さは憧れの街を東京の夜と同じ夜に変えた。事実足を運んでいた幾つかのエージェントにヨーロッパでのツアーを提案されたりもした。 客席には様々な関係者がまぎれている様子だったが彼らの興味は改めて様々なプランの待つ日本へと、心は飛んでいた。

まずはそこを何とかしなければいけない実体の無かった部分のキャリアは、ベルリンとロンドンで確実に彼らの中で彼らのテーマを整理させていた。 ここからが本当の始まりになる。何となく不確かだったポイントはその時初めて彼らを確実なスタートラインに心身共にのせていた。 浮かれていた要素を排除した時、彼らの目指すものはやはりまず日本でしかない。 帰国の数日後、東京での5ヶ月振りのライヴが彼らを待っていた。それも初めて彼らの名前がクレジットされた招待状がマスコミに配られ、 場所もライヴインではなく赤坂のラフォーレミュージアムである。チケットはソールドアウトしたという情報の中で新しい始まりに向けて彼らが再び牙をむき出しにする時を待っている。アルバムのタイトルは何のギミックもない、そのバンド名と同じ「BOØWY」。先がけてシングル「ホンキートンキークレイジー」もリリースされる。 アルバムのタイトルに思いを込めて、彼らは新しい戦いの地へと戻っていく。

ラフォーレの成功を受け、アルバムの発売を期に彼らは早速アクティヴに動き始める。 周囲のほとんどの反対を押し切り6月25日渋谷公会堂でのギグを発表。動員も含め否定的な声の中で発売されたチケットはすぐに売り切れ、僅かに用意された当日券も長蛇の列。 チケットを手に入れる事のできないオーディエンスを生み、ここからコンサートにおける倍々ゲームの幕が切って落とされる事となる。 8月22日「BAD FEELIN’/NO.N.Y.」のカップリングで12インチシングルを発売。更に10月から始められる次回作のレコーディングの為に、氷室と布袋によって30曲という大量の曲が用意され、 この中から11曲に絞り込まれた。再び佐久間氏をむかえ、10月24日から山中湖ミュージックインスタジオにてレコーディングをスタートさせた。 ベルリンを体験し、ロンドンに足を運んだ彼らの、原点に戻ったからこそ生み出されたアイデアは言葉にも音創りにも新しい形として影響を与え、作業は順調に進む。 そして12月24日クリスマスイヴの夜、BOØWYは圧倒的なリクエストに答え再び渋谷公会堂のステージに立つ。 ここでもまた彼らはただのアイドルでは絶対にやれない事、ましてや売れて行こうとする者達が必ず伏せてしまう事を堂々と発表する。 −ギタリスト布袋寅泰の山下久美子との結婚−。発表にあたってメンバーからは反対どころか過激な祝福を受け、彼らは自分達のステージのアンコールで新婦をステージに迎え入れた。 そしてそれ以後、12月24日の渋谷公会堂が恒例化する。それは既成のシーンの判断に左右されないという彼らの決意表明でもあった。 そして12月27日彼らは既にレコーディングが終了している4枚目のアルバムのトラックダウンの為、再びベルリンに向けて旅立っていった。



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